凍えそうさ君の瞳で

 インスタをやめた。フォロワーは知り合いしかおらず、わたしがアカウントを削除したことにすら気づいていないと思う。しかし、わたしにとってはSNSをひとつやめるのは、いつもすこし勇気がいることだ。

 

 惰性で300人以上をフォローしていて、3年前にフォローしたコンテンツに心が動かなくなって、経年や疲弊を感じて辛くなった。そうして整理されていないタイムラインをみることが、好きなものばかりのはずなのに片付けられていない自分の部屋を見ているような気になり、滅入ってしまった。片付ければよいだけの話だが、その気力がどうしてもない。

 また、別に見たくなかったようなものが目に入ることが増え、趣味の範疇だというのにこんな気分になってストレスを感じるのは嫌だと思った。

 

 しかし一番の理由は、お互いのSNSをチェックしていることを前提としたコミュニケーションは、一見楽に見えて、しかしぜんぜんいいものではないということを思い出したからだ。これは大学時代の彼との付き合いの中で気づいた教訓だったのに、すっかり忘れていた。

 あたかも人が自分に興味があって、だからフォローされたり、既読がついて「見られている」ように錯覚する。不特定多数相手ならまだしも、フォロワーが知り合いしかいないと、この勘違いはさらに加速する。

 実際、自分が思うほど人は自分に興味がなく、写真も文字も、よほど響かなければ数秒後には見たことも忘れる。これはフォロワーだった人たちをばかにしているわけでも侮っているわけでも決してなく、自戒だ。人が自分に興味があると勘違いしてしまうから、人に対して「この間アップしたから知っているかな」などと思い、過程を省いたり、つい一対一のコミュニケーションが雑になってしまう。いつ誰がどんな内容をアップしたかなんて、笹舟のように放流したくらいで、別にどうでもいいし覚えていないのに。

 写真や文字をアップすることは問題ないどころか、発信することは共感や気づきを得るためには有意義な行動だろう。前向きに気にかけてくれている人にとっては嬉しいことだとも思う。しかし、そうして見てくれることにかまけて、報告や話を行ったような気になるのは、個別のコミュニケーションを放棄しているような気がする。

 SNSすべてがそうだとは当然思わない。ただ、わたしのインスタの使い方がなんとなくそうなってしまっていた自覚がある。

 

 自分に宛てて言われていないことは、わからないし知らない。察しろというのは、人からそれを期待されるのは疲れるし、自分から匂わせるのも信条に反するのでやりたくない。相手に伝えたいことがあるのであれば、SNSでアピールする必要はなく、その人に対しての言葉や行動で示せばいい。

 失いたくない大事な友人に対しては、タイミングをみつけて、話したいことはちゃんと話せばいい。親しき仲だからこそ、相手に甘えて、そういう機会を放棄してはいけないと思う。

 

 今のところ不便なことは特にない。何人か友人の子育て写真が見られなくなったが、そのようすはだいたいツイッターでも書いてくれているのであまり差し支えない。ちなみにツイッターは知り合いの割合が少なく、個人的な備忘録の役割が強く、今のアカウントは12年も使っているためライフワークとしてもやめるつもりはない。

 たかがSNSだが、こうしてやめてみるとしっかり心が軽くなったので、されどSNSだ。もっといろいろ捨てて身軽になりたい。無一物にはなれないものの、近づきたい。真摯に楽しく、面白おかしく生きていくためには、意外とそれがいちばんの近道かもしれない。