まじないを唱えるのさ

 ふた月前、「銀魂 THE FINAL」を観にひとり映画館へ。「スワロウ」からの「銀魂」という最悪の食い合わせだったが、どちらもちゃんと覚えているし、銀魂を後にして大正解だった。

 原作は連載当初から購読しており、途中空白はあったが、映画版・実写版も履修済み。諸イベントにも行ったし……というのはさておき、大変に好きな作品だ。これを語ると横道に逸れるので、またの機会とするが、今回の映画については、あらすじを除いてほぼ全編泣き通しだった。これがほんとうの最後だと思うと大変悲しいが、原作者及び関わった方には感謝の気持ちしかない。こんなに出会えてよかったと思う作品にはそういくつも巡り会えない。人生には数えきれないほど後悔があるが、そんな人生でも生きていてよかったとつかの間思わせてくれる、ものすごい美学とパワーを持った作品だった。

 

 わたしの大学時代の友人2人も、同様にファンで、学生時分であれば、おそらく今回のファイナルは3人で予定を合わせて観に行ったと思う。そして全員号泣して観終わったあと、酒を飲みながらくだらない話もありつつまた泣いて感想を語り合うのだろうと思う。

 しかしながら、当然のごとく、今はそうもできない。まずもってもう学生ではないし、住んでいる場所も、身を置く環境も違い、連絡をとることはできても、おいそれと集まることはできない。やりたいことをやりたいときにやることができる時代はとうに終わっている。

 好きなものを好きなように摂取し消費することができる経済力ならある程度持っていること。しかし集まろう!で人と集まれない不自由。そしてこうなるなんて思ってもいなかったこのご時世。やりたい、でもできない、あの頃だったらいいのに、を「でもできないからなあ、しかたない」で無理やりにでも納得させられること。

 それらを痛感して、なおどうしようもない。これがまさに、大人になることなのでは。だとしたら、わたしはいまほぼ完璧に大人だ。

 

 悪いとかいいとかではない。しかたのないことでしかない。食い扶持を稼がなければならないので仕事が生活の中心になる。当然わたしだけじゃない。自分の欲求より優先すべきものがある以上、そのための我慢が必要で、それは誰だってしているはず。

 こうやって納得して諦めるなんてこと、したくてしているわけでもない。わたしだけではないはず。すべて投げ打ってなかったことにしちゃって、好きなことだけやっていたい。それでも、それをできないことのストレスをなんとかないことにして、毎日ようやく生き続けている。でもわたしのそれは、理性や節度なんて高位のものではない。今の生活がなくなったらどうなるかわからなくて怖いだけだ。

 

 あのころはよかった、楽しかった、戻りたいと思ってはいけないのだろうか。

 わたしは今いなくなりたいと思っているが、不思議と、自分の選択してきたことを間違っていたとは思っていない。間違っていたと思いたくないだけかもしれない。でもそんなこと思ったって、もうどうしようもない。理由は後回しで、なにを選ぶかはだいたいすぐ決まる。そうして選んで今までやってきたことに、悪いことがひとつもなかったのだとしたら、この人生は運が悪かっただけ。すべて良くなかったのなら、しっぺ返しがきただけ。心当たりが吐きそうなほどあるので、後者よりの後者と思う。そしてなにがダメだったのかとか、今さら解明する気にもなれない。あえて言うなら、そういうところよ、と。

 どうせ昔には戻れないし、戻ったところで、行いが改まるような善人でもない。だからもう、諦めるから、せめて、戻れたらいいんだけどな、くらいは思ってもよくないか。

 

 わたしはきっとこの先もひとりでいて、支えてくれる人もいない。友人の存在は掛け替えなく大切だが、だからじょうずな頼り方がよくわからない。家族はなおさらだ。この先指標にしているものもない。やりたくない仕事や人間関係をにこにことやる気があるようにこなしている振りをするのも限界ではある。できない、できる自信がないことを、そうだと言う勇気もない。ここまでやってこれてしまって、今さらできないと言って許されないと思う。だけどこれからどうしたらいいのかわからない。どうしたいのかもあんまりわかっていない。

 ただただもう昔には戻れないと知っている時点で、戻れないんだなと涙が出そうになることで、ひとりで噛み締めている。わたしは、大人になんてなりたくなかった。

 

 

:以前のお題期間にあがらなかったので追記してお焚き上げ