大人になってまで胸を焦がして

 人生に必要なものとは?

 まず音楽。これはないとダメだ。いまさら文章にする必要もない、わたしにとって、ほかに比べようがない大切な生涯における財産だと断言できる。

 あと映画。これは、ここ数年くらいの趣味だけど、「最強のふたり」や「フローズン・タイム」のラストの最高に満ち足りた気持ち、「はじまりへの旅」や「ノッキング・オン・ヘヴンズドア」の人生観、その他にも色々あるが、これらは音楽とはまた違う、映画でしか切り取れない一瞬の輝きによって心を揺さぶられる。その経験ができなくなるなんて考えられない。

 ほかにも、ほかにも、と探していくと、必要としているものは様々あるが、どうしても首を傾げるのが人間関係だ。

 

 友人が極端に少ないわたしだが、最近は、友人とはなんなのだろう、と考える(思春期みたいだ)。

 お互いいい大人だし、忙しいので、会うとなると予定を合わせなければならない。ということはすなわち、お互いの時間を拘束する権利を無償で与えあうことになる。

 でも、なぜだか、いる。常に例外なくそれもめちゃくちゃに遅刻してきたり、約束を自分の前後の都合とあわないからと当日反故にしてきたり、セフレなんだかよくわからない立ち位置の男に急に会わせてきたり、約束したことを「本気だと思わなかった」と言ったり。

 本人にとってはよくあることで大した話ではないのかもしれない。それにわたしも、会社に入って直後、さんざんな扱いを受けて安易に人を信じられなくなったので、今いる友人のことは極力受け止めて大切にしようと思い、そうしてきた。自ら言うのもなんだが、昔と比べて言葉を選ぶようになったし、寛容になったと思う。しかし、こんな仕打ちを受けてまで、そんな友人を大切しなければいけないものなのだろうか。というかそれは、友人と呼べるものだろうか。

 

 お茶の世界では一定の作法があり、生徒は当然それを学ぶが、それまでまったく経験のない人が自分が亭主を務める席に入ったとして、それを押し付けることはしない。静かに座り、松風を聞きながらお茶を楽しんでもらうこと、それしか求めない。なぜなら初心者だから。

 でもそれは相手が初心者だからであって、心得があるとされる者にそれは認められない。相手に対するもてなしの表現が作法であり礼儀であり、そのもてなしを受けるための表現が作法でありまた礼儀なのだ。作法を怠っておいて「表現しなくてもわかるでしょ」は、相手を軽んじたただの怠慢でしかない。

 人間関係もまた同様で、それは「親しき仲にも礼儀あり」なのだと思うが、わたしを大切にする気持ちがない友人をもてなし、わたしの時間や気持ちを無償で与えるなんて、とてもじゃないがそんなことは、精神と時間の浪費にしかならない。

 わたしの人生に余裕なんてない。家と会社の往復の中で、仕事じゃない時間をできる限り楽しく充実して過ごしたい。だからこそ、必要なのはあと、互いを大切に思ってくれる友人だけ。その他の人間関係については、ひとまず必要がない。必要がないなら、とりあえず手放そう。もっとほかに、やりたいことや行きたい場所は山ほどあって、人生は夢だらけだ。